高校球児たちが、甲子園の土を集めているシーン。
今ではすっかり当たり前の景色になっていますが、物事には全て始まりというものがありますね。
この、甲子園の土を持ち帰るという行為は一体誰が最初に行ったのでしょうか?
今回はそんなちょっとした「甲子園の歴史(雑学?)」について調べてみることにしました。
目次
甲子園の土を初めて持ち帰った人は誰?
甲子園の土を最初に持ち帰った人というのはいくつかの説があります。
一つ目は川上哲治氏。
もはや伝説中の伝説。「打撃の神様」と言われた野球界の超偉人ですね。
1937年、夏の第23回大会で、当時熊本工業の投手だった川上氏が準優勝に終わった際、甲子園の土をポケットにしまい持ち帰ったと言われています。
但し、本人曰く、「甲子園以外で同じことをしていた選手の真似をした」ということなので、一番最初かと言われると疑問が残るところです。
二つ目は個人ではなくチームでという括りになります。
1946年、夏の第28回大会で、準決勝で敗れた東京高等師範附属中(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の佐々木迪夫監督が、三年生以外の選手に各ポジションの土を持って帰らせたとされています。
なぜ、三年生以外なのかと言うと、「来年また、この土を返しにくる」という意味が込められていたみたいですね。
これが、新聞で記載されている一番古い「土の持ち帰り」の記録のようですね。
ただしこれは、甲子園ではなく、阪急西宮球場での出来事のようです。
三つ目は福嶋一雄氏。
1949年、夏の第31回大会で、当時、小倉北のエースだった福島氏が準決勝で敗れた際にホームベース後方の土をポケットに入れたとされています。
どうやらこれは無意識に行われたようで、後から大会役員の手紙で本人が知ることになったようです。
こうしてみると、「土の持ち帰り」という意味で一番古い記録は二つ目の東京高等師範附属中の選手になるのですが、「甲子園の土を最初に持ち帰った人は?」ということになると、川上哲治氏が有力ということになりそうですね。
甲子園の土を持ち帰るのはいつから慣習になった?
甲子園の土を持ち帰るというのは昔からあったようですが、この行為が全国的に広まったのにはきっかけがあるようです。
1958年の夏の第40回大会、沖縄県代表の首里高校は、一回戦で福井県代表の敦賀高校に1-3で敗れました。
敗れた首里高校の選手は甲子園の土を持ち帰ったようですが、当時まだアメリカの統治下にあった沖縄ではアメリカの法の下、甲子園の土は「外国の土」とみなされてしまったようです。
外国の土というのは、植物検疫法に触れてしまうという事で持ち込み禁止だったようで、選手たちが大事に持ち帰った甲子園の土は那覇港に棄てられてしまったみたいです。
このことが当時の新聞で報じられて、全国に知れ渡るきっかけになったようですね。
ちなみになんですが、当時この事を知った日本航空の女性客室乗務員が「甲子園の小石」を沖縄に贈ってあげたようです。
どうやら植物検疫法に引っかかるのは土のみで「石」は大丈夫のようで、今でもこの甲子園の石は、首里高校の甲子園出場記念碑の中に埋め込まれているみたいですよ。
甲子園の土を持って帰ったその後はどうするの?
このようにして、甲子園の土や砂を持って帰るのは全国的に広まった訳ですが、持ち帰られた土のその後の使い道はどうなってるんですかね?
これは選手や学校によってそれぞれのようですが、
・自分で保管しておく
・自身の高校のグラウンドに撒く
・知り合いに配る
などがあるようです。
保管する場合は、ビンに詰めて保管することが多いみたいです。
知り合いに配るというのは、ベンチに入れなかったメンバーや、友人に分けてあげたり、学校に寄付したりすることが多いようですが、中には周囲に配り過ぎて自分の分が無くなってしまったなんて気前の良い選手もいるみたいですけどね(^^;
他にも、「豊作を願っておばあちゃんちの畑に撒いた」なんていう、一種の縁起物のような使い方をした選手もいたみたいです。
甲子園の土を初めて持ち帰った人は?いつから慣習化されて土はその後どうする?のまとめ
いかがでしたか?
このように今ではすっかり当たり前のように土が持ち帰られるようになりましたが、”あえて”土を持ち帰らない選手や学校もあるみたいですよ。
2018年の夏に行われた第100回大会で、一回戦で負けた和歌山代表の智辯和歌山高校の選手は土を持ちかえる事が無かったそうです。
智辯和歌山クラスの強豪校になると、「絶対にまた甲子園に来る」という誇りやプライドがあるのかもしれませんね。
・・・でもまあ僕だったらどうにかしてコッソリ持ち帰ると思いますけどね(笑)